変化に適応するチカラ

もう聞きたくないと思っている方も多いのではないかと思うのですが・・・

コロナ、感染者数が増えてきましたね。

医療現場は大変な状況だと聞きます。


呼吸器の管理は本当に大変なのでどれだけ現場が逼迫していて体力勝負であるか・・・医療者の事を考えると心が痛みます。もちろん治療を受ける患者様もそうです。


わたしも一応看護師の免許がありますから、いつか看護協会から電話がかかってくるのだろうかと思ったりします。三月からお産の介助に入るため、病院での復帰は残念ながらできませんが。


コロナの二次災害として、経済的困窮や生活困窮があげられ多くの子育て世代に影響がでていると予想されています。驚くのはコロナで死んでしまう方よりも自殺の人数が多いということ。

私ができる限りの事を探し続けて生きたいです。

個人的に相談を受けることは多いですが、開業した助産院としても活動していきたいので、

1/6からZOOM子育て相談会をスタートすることにいたしました。是非ご参加ください!

(詳しくは産後メニューより)



人生は本当に山あり谷ありです。



まさかこんな年になるなんて・・・

大学一年生のかたや就職の学年の学生さん、飲食店のオーナーさん、新婚さんや妊婦さん

きっと他にも大勢のかたが「こんな年になぜ」

と悩みを抱えている事だろうと思います。


わたしは、今年3月に日本に帰国いたしました。

そのときのフランスでの最後の生活について少しお話したいと思います。。。



もともと今年で終了だった海外赴任。引っ越し日程も決まっており、日本での旦那勤務先も決まっていました。あとはその日をまつばかりでした・・・


しかし日に日に増していくアジアのコロナの感染者数。

フランスは海外からの入国者を制限し始めていました。

毎日のようにマクロンさんがテレビに生出演し演説。

それを通訳できる友人がメールに送ってくださり読み、

コロナがいかに恐ろしいものであるかが伝わってきていました。


飛行機出発まであと一週間。もう本当に引っ越しは間に合うのか飛行機に乗れるのか!!という毎日。

フランスの外出制限規制を経て、引っ越しの日程や飛行機の出発日程は急に変更になりました。

わたしは家族の荷物をまとめ、子どもは家を掃除し(フランスでは家具付きマンションがほとんどで退去時に同じように戻さなくてはなりません)旦那は銀行や会社のまとめ作業に追われていました。

ようやく荷物を出し切ったと思ったら、

飛行機出発まで泊まるはずだったホテルが閉鎖。

ホテルに電話しても「わからない」とスタッフも困惑している様子。

空港までのタクシーもキャンセル。

大家さんになんとか飛行機が飛び立つ前日まで寝泊まりさせていただけないかとお願いし、幸いに次に住む方が決まっていなかったため滞在することができました。

その間は、本当に大変でした。

外出制限があり、外に出るには証明書が必要です。

その証明書を印刷するコピー機はもうここにはありません。

説明するにはフランス語が必要で、語学力はわずかな買い物で精一杯。

泣きそうになりながらも友人と最後までメールやりとりをして

「他に帰国する人も同じなんだ」

とほっとしては情報を共有し現実をみつめていました。

毎日近くのスーパーにあるクロワッサンを食べ、残った水を少しずつ飲み、

ゴミの収集も一時止まったため大家さんにあまりゴミを出さないように言われたため

最低限の食べ物でしのぎました。

そのご無事飛行機に乗ることができ、日本についたときは久しぶりに母国に帰れた喜びで涙がでそうでした。その後予約したタクシーに乗車させていただき2週間の自粛生活をしました。その間も住居の準備や食事など大変なこともありましたが、日本語通じるんだから。なんでも平気、感謝でした。


思い返すと

フランスで大変だった最中「なんとかなるもんだ」と息子が言い、

冷蔵庫のものが空っぽになったとき、娘は笑っていました。


なぜそう思えたか・・・それは・・・



パリに来た2018年があまりにも過酷だったからです。



パリに転勤になると言うと周りにはいいなあなんて言われましたが

わたしにはかなりハードでした。

なぜってわたしお恥ずかしい事に英語も話せないのですよ。


どこに食べ物が売っているのかも分からない

ようやくスーパーに入っても

この肉の大きな塊をどう料理すれば良いのかと新たな壁にぶち当たります。

初めはフランス人と会話しながら買い物をするマルシェなんて恐ろしくてとても行くことができませんでした。しかも知らない食べ物ばかり。野菜も、なんて読むのよこれ状態です。


友人もいなければ、時差があるので日本の家族に相談することもできない。

そんなとき、娘が高熱を出し、2週間も寝込みましたからもうお先真っ暗な状態でした。

病院は英語。薬は病院に併設されておらず、自分で処方箋をもって薬局を探し行かなくてはなりません。しかももらった薬の使用方法はすべてフランス語。

何度泣いたか・・・助けてと何度叫んだか・・・


旦那ですか?

無理です。

初の海外赴任、旦那こそ大変な毎日を送っていました。

どうやって車を運転するの?まずそこからですから。

かなりびびりな旦那にとってはこの海外赴任はかなりストレスだったと思います。

夫婦と言うより戦友です。


電気製品から

食材のことまで

気候の違いから

物価の高さまで


地球の裏側はこんなにも違うのかと頭を抱えました。


それから一ヶ月くらいしてからでしょうか。


このまま泣いていても仕方がないと

急に涙は出なくなり重たい腰をあげることにしました。


フランスの食材を使った料理教室に通い、フランス語教室に入りました。

日本語学校のボランティアサークルに入り、パリの日本語教会に通い、皆がどのように過ごしているのかをリサーチすることにしました。


それから何ヶ月も何ヶ月も経て、

ようやく、

何でも話せる友人、山を乗り越えた夫、あたらしく広がった趣味の世界、

が私を支えてくれるようになりました。(元気な子ども達も)


フランス生活二年間を経て現在、

結果、「行って良かった」

と心から感じています。


大変だった時、ふと旦那に言われたことが脳裏に焼き付いています。


「双子が産まれたときもこんな感じだったよな」


そうです。双子を妊娠したときはまるで大きな大きなジェットコースターにのった気分。

どんどん大きくなる自分のお腹に震え、お産が終わると、

想像はしていましたが、産まれて泣き出す二人を毎日みて愕然としていました。

精神的に精一杯でもう無理だと何度も思いました。

でも何年も何年もかけて仲間ができ、双子育児を楽しめるようになったのでした。


だんながそう言ったとき、

一つずつ乗り越えてきた自分を知り、とても勇気をもらいました。



大きな山を登る時、この山は登れるものかと人はとても不安になります。

でも後ろを振り返ってみると

のりこえてきた山はいくつもいくつもあるのだと思います。



コロナのある生活は本当に大変なものです。

ですがなんとかみんなでこの変わった生活を受け入れていきたい。

こんなにも適応できないものかと人の弱さに気づき、たくさんの事を諦め、

でもその先にあるであろう新しい世界、

新しい自分達の可能性を信じて生きていきたいです。



(写真:なんども地震という災害から立ち上がってきた日本を信じて)


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人生によりそう 齋藤出張専門助産院

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